2020年7月12日日曜日

得意技

得意とはどう言う事だろうか?

例えば運転が得意だと言う人がいる。

それは、何をもって得意だと言えるのか?
早く走らせる事が出来るのか?
事故を起こさない自信があるのか?
交通ルールを全て把握してるのか?
コップの水をこぼさずに峠を下りる事が出来るのか?

一言で運転が得意と言っても、色んな解釈がある。

僕は写真が得意だが、
では、写真の何が得意なんだろうか?
と、考えてみた。

カメラの機械部分に詳しいのか?
レンズの銘柄を熟知しているのか?
ライティングのスペシャリストや、フォトショップの達人か?

どれもピンとこない。
僕は考えた。

ー  僕が他のどのカメラマンよりも優れている点  ー


・・・・・!

分かる事!

自分が撮った写真、他人が撮った写真を問わず、
何がいい写真で、何がダメな写真かが分かる事。

ファインダーを覗く前から絵が見えている事。

イメージする能力と、
絶対写真感。(絶対音感みたいだ)

僕はそれに特化している。


主観ではなく、客観的に、
独りよがりな思い込みではなく、平均的な感性で、
何が良く、何がダメかが分かる事。

『分かる』というのが僕の得意技だ。


何があなたの魅力かが分かる事だ。



2020年7月11日土曜日

生誕

ある日、あなたは
世界最大のレースに参加することになりました
競争者は4000万人以上です

その中で勝利するのはたった一人
勝てる確率は、0.0000025%


チャンスは0と言ってもいいでしょう
負ける理由しか見つかりません
誰だってそのようなレースに加わることは
狂気の沙汰だと思ったでしょう


それでも、あなたは参加しました
そして、勝つだろうと考えていたのです
あなたが勝利するとは
誰もが思っていなかったかもしれません
けれども、あなたは
世界最高の意地っ張りでしたし
決意も並大抵ではありませんでした


”あきらめる”という単語は、 
あなたの遺伝的辞書には、なかったのです


なぜなら、そのレースに負けたら
史上最高の賞を
取り逃がすことになったからです


どんな賞だと思いますか?
「生」です


誕生日おめでとう

さて、そんな素晴らしい賞を取ったあなたが 
一体何におびえると言うのです

あまりにも当たり前で
忘れがちな真実
まるで空気の様な
そんな幸運が
僕たちの周りには
渦巻いているのです





2020年7月9日木曜日

『弓矢物語』 サミー物語 番外編

最初に、
僕は産まれた時は純粋無垢な子供だった。
そんな僕がたこ糸とカッターで弓矢を作れるようになる物語。


僕の父親は発明家だった。
売れたものもあれば、売れなかったものもある。浮き沈みの激しい生活だった事を覚えている。
そんな仕事だったものだから、父はよく家にいた。そしていろんな道具があった。おそらく一般家庭には無いような工具が揃っていたと思う。万力とかネジ切りとか。
そして、おそらく一般的な父親とは違う遊びを教えてくれた。(一般的な父親を持ったことがないので定かでは無いが…)
圧力釜で爆弾を作る方法とか、簡単ピストルの作り方とか、テレビを武器に変える方法とか…
って、全部武器じゃん!笑
まぁ、そんな父親だったから弓矢なんてのは初歩の初歩だった訳だ。
僕の作った弓矢と兄の作った弓矢と、どちらが強力かよく競ったものだ。
最終的には鉄で出来たゴミ箱を貫通するまで威力を高めたところで、「ゴミ箱に穴を開けるんじゃありません!」と母に怒られて開発はストップした。
威力を高められるということは、威力を弱められるということだ。そんな教育方針だったのかもしれない。知らんが。
弓矢の構造は簡単だ。木、もしくは竹をしならせてその両端をたこ糸で結ぶだけだ。重要なのはむしろ矢の方で、まっすぐ飛ぶ矢を作るのはかなり難しい。ここでは詳細は割愛する。
そして、威力を決めるのは二つ。しなりの力と鏃だ。
鏃とは矢の先端に付けるナイフのようなものだ。釘でもなんでもいい。おすすめはダーツの先だ、すでにネジが切ってあるので装着が簡単なのだ。
弓のしなりが弱くても鏃が強力だと立派な武器になる。
大切なのは弓の威力が【弱い】ということだ。

ここからはあくまでも僕の考察による世間の物の見方なので、異議がある人もいるかもしれない。

世間一般で指す「暴力」は、インパクトの強さで決まるように思う。
例えば拳で殴るのは暴力だが、しっぺは暴力とは捉えない。
エアガンで撃てば事件だが、銀玉鉄砲で撃っても遊びですむ。
あくまでも僕の見解だが…

話を戻そう。

高校時代、絡んできたエセヤンキーを殴ったら問題になっていただろう。
だけど手作りの、それもその辺の木で作った弓矢のオモチャで射ったところで遊びですむ。とその時の僕は考えた。
実際大した威力ではなかった。せいぜい2、3メートル飛ぶくらいだったと思う。
ただ鏃に丸ペンの先を使った。
漫画を描く人にはお馴染みの、先が尖ったペン先だ。クギやカッターの刃など凶器をイメージするものではNGだ。あくまでも「その辺で何気なく手に入る物」の括りでなくてはならない。シャーペンの芯でも良かったが丸ペンの方が装着しやすかったというのが採用の理由だ。
結果、丸ペンの先を装着した矢は50cm離れた的に難なく命中した。そう白いシャツを貫通してエセヤンキーのおへそに命中したのだ。
「うぎゃ~」という叫び声が教室にこだました。
僕は「大げさだな~ただのオモチャじゃんww」
ここで大事なのは笑いながら言う事だ。あくまでも遊びである事を強調する。
目は笑わずに「何発でも遊びで矢を射るよ」と心の中でつぶやく。

そもそも、渡部家をよく知っている人は例外なく僕にちょっかいをかけたりはしない。
僕に絡んで来るのは大体が高校で知り合った市外からの生徒だった。
僕は、線が細かったし眼鏡をかけていたので舐められがちだったが、身体測定で測る筋力数値は全てクラス一だった。
背筋にいたっては機械の故障を疑われ三回も別の機器で測らされた。ゲームセンターにパンチ力を測るゲーム機があるが、僕の記録が同級生に抜かれたことはない。自分で言うのもなんだが当時の僕は身体能力が飛び抜けて優秀だったのだ。それに加えて武器の知識と父から教わった処世術(いかに問題にならずに人を懲らしめられるか)があった。更に珍走団の幼馴染、僕に輪をかけた兄、そして大ボスの父。笑
渡部家は地域ではちょっと有名な存在だったと思う。

そんなわけで弓矢は僕にとっては日常になっていた。



2020年7月8日水曜日

『サミー 物語2』

最初に、
僕は産まれた時に左目のほとんどの視力を失くした。
そんな僕がカメラマンになるまでの物語。

中学を卒業するまで数学と水泳大会1位の記録は守り通した。

高校は市で上から2番か3番のところを選んだ。何故だろうと理由を考えてみる。特に高校に夢を抱いていた訳ではない。敢えて言うなら兄がそこの卒業生だったから、と言うものかも知れない。(それで後に後悔することになるのだが…)
合格発表は眠かったので見に行かなかった。どうせ合格したら新聞に名前が載る仕組みになっていたのだ。わざわざ見に行く必要などない。と言う感じの冷めたガキだった。結局同じ高校を受験した子の親(母の友人)が受かってたわよーと電話して来てくれたのだが。
高校は当時で創立80年だか100年だかのそこそこ歴史のある学校で、もともと男子校から始まったせいか男子6割女子が4割の、今の僕だったら間違いなく選ばない学校だ。笑
Googlemapによると家から高校までは4.4km、最後に150mほどの地獄坂があった。毎朝自転車でタイムトライアルをするのが日課になっていた。当時の平均タイムは11分。どうしても地獄坂で失速してしまうのだ。そう言えば一度隣に住んでいた野球部男子と一緒に登校した事があった。その野球部男子の母親が一緒に登校してあげてと頼んで来たのだ。内心「??~?」と思ったが笑顔で「いいですよ~」と返事をした。野球部男子の脚に興味があったのだ。さあ、タイムトライアルの時間だ!僕はいつも通りのルートをいつも通りのスピードで駆け抜けた。残念ながら野球部男子はあっという間に見えなくなった。それ以来一緒に登校してとは言われなくなった。笑
高校は私服だったが、僕は学ランを好んで着ていた。理由は楽だったから。毎朝服を選ぶのは大変なのだ。だけど学ランなら服選びの5分間を睡眠に充てる事が出来た。僕は寝るのが大好きだった。その為の学ランだ。兄のお下がりの学ランは右内側に龍、左内側に虎が住んでいて、まるでヤンキー仕様だったが、着ていた当人は七三分けにメガネと言うなんともアンバランスな感じだった。そんな虎と龍を飼っていたものだから、クラスのエセヤンキーによく絡まれたものだ。あまりにも鬱陶しかったので、ある日自作の弓矢で🏹射ってやった。それから何故か静かになってくれてとても助かった。
高校は三年間応援団に所属した。
応援団の為の学ランではなかったが、ある意味とてもしっくりくる組み合わせではあったと思う。
そして、相変わらず写真は撮り続けていた。

今思うと、先生の指示に従う部活が嫌いだったのかもしれない。
だからサークルを作った。
他の高校からもメンバーを募り【artrandom】を設立した。
サバゲーをしたりBBQをしたり映画を作ったり、とにかくやりたい事をやるサークルだった。
そこで映画作りの魅力にハマり、漠然とそれを仕事にしようと決めた。

たった一つの問題は、卒業出来るか、その一点だった。笑

3つ上の兄はまあまあ優秀で…とにかく勉強ができた。それを覚えていて比較し、僕の学力に対して罵声を浴びせる教師もいた。傷付かなかったと言えば嘘になるが、どちらかと言えば憐みの感情の方が強かったように思う。(ああ、この人はきっと誰からも愛されずに一生を終えて行くんだろうな。高校生にそんな風に思われる教師ってなんか可愛そうだなぁ)とまぁ、相変わらず冷めたガキだったのだ。
月日は流れ、相変わらずの映画三昧、写真三昧、好きな事三昧。
おかげでますます卒業が怪しくなった。

つづく

2020年7月7日火曜日

ホンモノとニセモノ

世界を俯瞰で見るとおかしな状況に気付く
ニセモノが売れている

車や時計やバッグ
いわゆるブランドは本物を求めるのに
その一方で
物体ではないもの
セミナーとか写真とか
実体のないものはニセモノが好まれている

何故だろう?
ちょっと考えてみた

それはつまりこう言う事なんだと思う

時計や服はホンモノとニセモノの差が明確だ
何処かの誰かが「これはホンモノです」「これはニセモノです」とはっきり教えてくれている
ニセモノを買うメリットは値段が安いと言うくらいのものだ
そして、本物を持っている方がステータスが上な気がする

だが、写真やセミナーと言った目に見えない物は誰もホンモノとニセモノの違いを教えてくれない
自分で選ばなくてはならない
そもそもニセモノがあることさえ知らないかも知れない

こんな例がある
10年ほど昔、某有名結婚情報誌で【結婚式スナップ¥39,800】の広告をよく見かけた。
結婚式スナップ写真の難しさを知っていた僕は疑問に思ったものだ。
どうやったらこんな安い金額で結婚式のスナップ写真を受けられるんだろう?
答えはとても意外なものだった。
要は詐欺なのだ。
まずスカウトマンが公園に行く。
理由は、【一眼レフカメラで自分の子供の写真を撮っているお母さんを見つけに行く為だ】
見つけたらそのお母さんに声をかける。
「可愛いお子さんですね、写真見せてもらってもいいですか?」みたいな感じだ。
そしてひたすら褒める「すごい上手ですね!何処かでプロとして撮っている方ですか?」
お母さんはもう有頂天だ。

ここで考えてみよう
スカウトマンが狙うターゲット【公園で自分の子供を一眼レフカメラで撮るお母さん】
まず第一に、このお母さんは間違いなく写真を撮ることが好きだ。
でなければ、わざわざ一眼レフカメラでは撮らない。
第二に、このお母さんはそこそこ時間の余裕がある。
でなければ、公園に来て写真は撮らない。
第三に、このお母さんはそこそこお金に余裕がある。
でなければ一眼レフカメラを趣味では買わない。
そして第四に、(ここが最も重要)このお母さんは写真を誰かに見て欲しいと思っている。(そして褒めて欲しい)
でなければ、写真は撮らない。

褒められて有頂天になっているお母さんにスカウトマンは畳み掛ける。
「実はカメラマンを探していまして、あ、私こう言うものです」
スカウトマンは名刺を出す。
『ナンチャラPHOTO ウェディングデザイナー山田太郎』
「たまたま通りかかったら可愛いお子さんがいて、お母さんが立派なカメラで撮影しているものだから、つい声をかけてしまいました。いや~僕はラッキーです。こんなに写真が上手い方に出会えるなんて!すごい上手いです。どこで習われたんですか?」
「いえいえ、ただの趣味なんですよ」
「ええ~!!自己流でこんなに上手いんですか!?長年この業界にいますがちょっと見ないレベルなんで、本当に驚きです!!ぜひうちで働いて欲しいくらいですよ!あー、でもお子さんのお世話大変ですよね?」
ちょっと間を置き
「土日のどちらかだけでもお願いできませんか?」
「そんな私なんて…」
「無理強いはできませんが、この腕を埋もれさせておくには勿体なさすぎて…」
スカウトマンは少し考え込むふりをする。
「こんなのはどうでしょう?週一回3時間だけ結婚式のスナップ写真を撮ってみませんか?」
「そんないきなりは怖いです」
「そこはご安心ください。最初の数回は練習という形でプロカメラマンに同行して現場の空気感や流れをしっかりみていただき、ご自分で納得して『よし!』と思ったらプロカメラマンデビューしていただこうと思っています。ご自分が納得するまで何度でも練習してください。・・・これはあくまでデザイナーとしての僕の経験でお話ししますが、あなたなら一回の練習ですぐにトップカメラマンになると思います。あ、今のは先輩カメラマンには内緒でお願いします。笑」
みたいなやり取りがあり、もうお母さんはやる気満々だ。
「ここから先は契約の話になります。練習期間はギャラは発生しません。デビューした後は一回の撮影で基本2万円、指名が付くようになるとプラス指名料という形になります。あと、皆さんには登録料として3万円いただいています。3時間の撮影を月に5回して10万円。あなたならすぐ指名がつくので月15万円はすぐですね。」
そして結婚式撮影当日、髪を後ろでまとめ黒いスーツにEOS kissを携えたお母さんが緊張しながら式場に到着する。
ドキドキしながら先輩カメラマンを待つ。
が、いくら待っても現れない。
「え、もうすぐ始まっちゃうよ、大丈夫なの?」と焦っているところへケータイが鳴る。
ナンチャラPHOTO 山田太郎の文字。
ホッとするお母さん。
しかし、地獄に落とすような内容が告げられる。
「すみません!!!!トラブルで今日行くはずだったカメラマンが行けなくなりました!一人で何とかしてください。お願いします。大丈夫!あなたの腕なら全然大丈夫です!!僕からのアドバイスは、プロとして振舞ってください!新郎新婦を不安がらせないようお願いします。本当すみません!ですが、正直言ってこのトラブルがあなたの時でよかったです。」
などと勝手なことを言って電話は切れる。

可哀想なことに、
練習だと思って気楽に結婚式を楽しもうと思っていたお母さんは本番写真を撮ることになる。
そして、訳も分からず結婚式の写真を素人のお母さんに撮られるカップルがこうやって生まれる。

ナンチャラPHOTOはカップルから¥39,800、お母さんから¥30,000、合計¥69,800ゲットしたことになる。

全てがそうでは無いと思う。
が、これが格安写真のカラクリだ。


話を元に戻そう
今回このカップルがニセモノの写真を選んでしまった理由は何だろうか?
それは、ズバリ価格だ
知らない人も多いと思うが、結婚式のスナップが¥39,800と言うのはかなり破格だ(ホンモノの相場は平均¥100,000といったところだろうか)
問題は適正価格を知らなかった事と、それを調べることを怠った
この二点だと思う

例えば定価が二百万円の新車を¥796,000で売ってたらほとんどの人が怪しむだろう
それは、何となく車の価格を知っているからだと思う
そして、知っているから騙されたく無いと強く思うだろう

しかし、人は知らないことに関しては思考を放棄する癖がある
根拠もなく大丈夫だろうと決めつける節がある
車の運転を見ていると気付く
一時停止で止まらない車の何と多いことか!
あれで事故が起きないのはただの結果に過ぎないと思う
「何が起こるか分からない、だから一旦停止しましょう」と言うのが一時停止の意味だ
それがいつの間にか「どうせ何も起こらないだろうからそのまま行っちゃえ」に変わっている
思考の放棄だ

スマホで世界と繋がる時代だ
調べようと思えばいくらでも調べられる
問われているのは調べる力、調べようとする熱意なのだ

とは言え、ホンモノだろうとニセモノだろうと選ぶのは自分だし、自分で稼いだお金だ
それは、ドブに捨てようと有意義に使おうと本人の自由だ

ただ、勿体ないとは思う
お金ではなく
時間がだ
巻き戻せない時間はそれこそお金では買えない


人生は短い
本来ならニセモノに費やす時間など無いはずなのだ

後悔しない人生を送ろうじゃないか ♬



2020年7月6日月曜日

『サミー 物語』

最初に、
僕は産まれた時に左目のほとんどの視力を失くした。
そんな僕がカメラマンになるまでの物語。

[コマーシャルフォトグラファー、帝国ホテル写真室、シェラトングランデトーキョーベイホテル写真室立ち上げ、ホテル昭和館立ち上げなどを経て写真会社を創立した後、全てを手放し現在に至る。商品撮影点数3000点以上。結婚式撮影件数 約1500件。ビジネス用写真 約200人。撮影年数 44年、内プロ撮影年数 27年。]


通った小学校は信州の山と山に挟まれた盆地にあった。
学校の敷地内にはヤギがいて、川が流れ、竹藪があり、広い畑があり、化石が出てきそうな堆積岩の崖があり、防空壕があった。
博物館にあるような巨大な石の見本や動物園並みの鳥の檻なんかもあった。
当時は当たり前の風景だったが、今思うとある意味凄い小学校だったのかもしれない。
よく校長室に休憩に行ったのを思い出す。おやつとお茶をもらえたのだ。笑
クラブ活動というものがあって、僕は6年間ずっと器械体操部だった。
小学生にして空中回転や忍者みたいな動きができた。あのまま続けていたらもしかしたらオリンピックに出られたかも知れない、などと思う。笑
とにかくよく遊んだ。陽が昇ってから沈んだ後まで野山を駆け巡った。山でスズメバチを捕まえたり秘密基地を作ったり、トムソーヤーの冒険をリアルでやっていた、そんな感じの小学生だった。あまりにも帰りが遅かったものだから、よく捜索隊も出動した。笑
僕は理にかなわないルールが嫌いで、かなり自由な子供だった。担任の先生は苦労したと思う。後から聞いた話だが、母親が学校に呼び出されたのは1度や2度じゃなかったらしい。そういった事を子供に悟らせず僕を信用して思うままにさせていてくれた事にとても感謝している。今の僕があるのは間違いなく両親のおかげだ。
僕の小学校時代はとても色鮮やかだった。野の緑、空の青、花の黄色。
そんな輝いていた8歳の誕生日に父親がカメラをくれた。
今で言うトイカメラだ。折りたたみ式の機械チックなものだった。
フィルムも一般的なものではなく小さい特殊なものだったと思う。
普段は読まない取り扱い説明書を一生懸命読んだのを覚えている。
その時は写真を仕事にするなんて夢にも思わなかった。
ただ写真を撮ることが好きだった。

中学校は普通の場所にある普通の学校だった。
運動神経が良かったのでどんなスポーツも器用にこなした。
それが裏目に出たのか、結局どの部にも入らずに「帰宅部」に所属した。
体育の授業で剣道部の主将に剣道で勝って恨みをかったり、水泳大会で大会記録を塗り替えて目立ったり、学校指定の制服を着てなくて先輩に目をつけられたり、いろいろあったけど、全てたった一つの事で解決していた。
幼なじみが番長だったのだ。笑
そんなこんなで中学校でも自由に過ごしていた。

つづく