2020年8月3日月曜日

『サミー物語4』

最初に、
僕は産まれた時に左目のほとんどの視力を失くした。
そんな僕がカメラマンになるまでの物語。



日本とカナダでは新学期の時期が違う。カナダは9月で日本は確か4月だったと思う。
それに加えて当時は学生ビザを取るのも結構大変だった。

そんな訳で僕には日本で半年の猶予が出来た。
それまでに英語力を鍛え、荷造りをし、アルバイトで少しでも生活費を貯め・・・

ー などと言うのは嘘だ。今とって付けている ー


当時の僕は、カナダに行く気など更々なかった。
日本が大好きだった。
なぜ好き好んで日本を出ないといけないのか?
留学の話など卒業するための方便だ!
と思っていた。《赤坂》に行くまでは。
そう、赤坂にはカナダ大使館がある。
いつもの冗談だと思っていたのだが、どうやら父親は本気で息子たちをカナダに送るつもりだったのだ。

え~~~~~!?

まぁ、そこはそれ
行くとなったのなら、楽しまなきゃ損だ。
と言うわけで、まずマントを探した。
やはり外国に行くにはマントが必要だろう。
アルセーヌルパンっぽいやつが必要だ。
しかし、何処にもマントは売っていなかった。
仕方がないのでトンビコートで妥協する事にした。
トンビコートは着物の上から羽織るコートだ。昭和の初期には学生服の上からもよく羽織られていた。(見たことは無いが)


唐突に余談だが、長野県は当時食品の実験地域に指定されていたらしい。
誰に聞いても知らないようなお菓子や飲み物が跋扈していた。
例えば、「カレーガム」カレールウの形をしたガムで、味ももちろんカレー味だ!これは3ヶ月くらいでお店から消えた。
「ミルクコーラ」その名の通りコーラのミルク割りだ。一部の学生に流行ったものの半年ほどで自販機から消えた。
個人的にはどちらも好きだったので市場から消えたのは残念でならない。
あ、プリンシェイクはまだ残っていて嬉しい限りだ。

さて、話を元に戻そう。
無事にトンビコートをゲットして、あとは拙い英語力をどうするか?
前回も少し触れたが、とりあえず公民館で英語を習う事にした。
毎週火曜日19時~20時、主婦に混じって楽しい英語教室の時間だった。
まわりの主婦たちは僕と同等のレベルだった。
つまり be動詞って何?ってレベルだ。
公民館の英語教室の先生は外国人だった。日本語はあまり喋れない。
かたや生徒たちは英語を全く喋れない。
今となってはどうやってコミュニケーションをとっていたのか思い出せないが、笑いの絶えないクラスだったのは覚えている。
結局、英語の何も身につかないまま出発の日を迎えた。
スーツケース三つを持って飛行機に乗る。
目指すはバンクーバー、山々に囲まれたヨットハーバーの街。
10時間のフライトだ。
とりあえずポールと二人ジンで門出を祝って乾杯した。

退屈だ。
10時間のフライトはとても退屈だった。


つづく





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