2020年7月6日月曜日

『サミー 物語』

最初に、
僕は産まれた時に左目のほとんどの視力を失くした。
そんな僕がカメラマンになるまでの物語。

[コマーシャルフォトグラファー、帝国ホテル写真室、シェラトングランデトーキョーベイホテル写真室立ち上げ、ホテル昭和館立ち上げなどを経て写真会社を創立した後、全てを手放し現在に至る。商品撮影点数3000点以上。結婚式撮影件数 1500件。ビジネス用写真 200人。撮影年数 44年、内プロ撮影年数 27年。]


通った小学校は信州の山と山に挟まれた盆地にあった。
学校の敷地内にはヤギがいて、川が流れ、竹藪があり、広い畑があり、化石が出てきそうな堆積岩の崖があり、防空壕があった。
博物館にあるような巨大な石の見本や動物園並みの鳥の檻なんかもあった。
当時は当たり前の風景だったが、今思うとある意味凄い小学校だったのかもしれない。
よく校長室に休憩に行ったのを思い出す。おやつとお茶をもらえたのだ。笑
クラブ活動というものがあって、僕は6年間ずっと器械体操部だった。
小学生にして空中回転や忍者みたいな動きができた。あのまま続けていたらもしかしたらオリンピックに出られたかも知れない、などと思う。笑
とにかくよく遊んだ。陽が昇ってから沈んだ後まで野山を駆け巡った。山でスズメバチを捕まえたり秘密基地を作ったり、トムソーヤーの冒険をリアルでやっていた、そんな感じの小学生だった。あまりにも帰りが遅かったものだから、よく捜索隊も出動した。笑
僕は理にかなわないルールが嫌いで、かなり自由な子供だった。担任の先生は苦労したと思う。後から聞いた話だが、母親が学校に呼び出されたのは1度や2度じゃなかったらしい。そういった事を子供に悟らせず僕を信用して思うままにさせていてくれた事にとても感謝している。今の僕があるのは間違いなく両親のおかげだ。
僕の小学校時代はとても色鮮やかだった。野の緑、空の青、花の黄色。
そんな輝いていた8歳の誕生日に父親がカメラをくれた。
今で言うトイカメラだ。折りたたみ式の機械チックなものだった。
フィルムも一般的なものではなく小さい特殊なものだったと思う。
普段は読まない取り扱い説明書を一生懸命読んだのを覚えている。
その時は写真を仕事にするなんて夢にも思わなかった。
ただ写真を撮ることが好きだった。

中学校は普通の場所にある普通の学校だった。
運動神経が良かったのでどんなスポーツも器用にこなした。
それが裏目に出たのか、結局どの部にも入らずに「帰宅部」に所属した。
体育の授業で剣道部の主将に剣道で勝って恨みをかったり、水泳大会で大会記録を塗り替えて目立ったり、学校指定の制服を着てなくて先輩に目をつけられたり、いろいろあったけど、全てたった一つの事で解決していた。
幼なじみが番長だったのだ。笑
そんなこんなで中学校でも自由に過ごしていた。

つづく



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