2020年7月8日水曜日

『サミー 物語2』

最初に、
僕は産まれた時に左目のほとんどの視力を失くした。
そんな僕がカメラマンになるまでの物語。

中学を卒業するまで数学と水泳大会1位の記録は守り通した。

高校は市で上から2番か3番のところを選んだ。何故だろうと理由を考えてみる。特に高校に夢を抱いていた訳ではない。敢えて言うなら兄がそこの卒業生だったから、と言うものかも知れない。(それで後に後悔することになるのだが
合格発表は眠かったので見に行かなかった。どうせ合格したら新聞に名前が載る仕組みになっていたのだ。わざわざ見に行く必要などない。と言う感じの冷めたガキだった。結局同じ高校を受験した子の親(母の友人)が受かってたわよーと電話して来てくれたのだが。
高校は当時で創立80年だか100年だかのそこそこ歴史のある学校で、もともと男子校から始まったせいか男子6割女子が4割の、今の僕だったら間違いなく選ばない学校だ。笑
Googlemapによると家から高校までは4.4km、最後に150mほどの地獄坂があった。毎朝自転車でタイムトライアルをするのが日課になっていた。当時の平均タイムは11分。どうしても地獄坂で失速してしまうのだ。そう言えば一度隣に住んでいた野球部男子と一緒に登校した事があった。その野球部男子の母親が一緒に登校してあげてと頼んで来たのだ。内心「??~?」と思ったが笑顔で「いいですよ~」と返事をした。野球部男子の脚に興味があったのだ。さあ、タイムトライアルの時間だ!僕はいつも通りのルートをいつも通りのスピードで駆け抜けた。残念ながら野球部男子はあっという間に見えなくなった。それ以来一緒に登校してとは言われなくなった。笑
高校は私服だったが、僕は学ランを好んで着ていた。理由は楽だったから。毎朝服を選ぶのは大変なのだ。だけど学ランなら服選びの5分間を睡眠に充てる事が出来た。僕は寝るのが大好きだった。その為の学ランだ。兄のお下がりの学ランは右内側に龍、左内側に虎が住んでいて、まるでヤンキー仕様だったが、着ていた当人は七三分けにメガネと言うなんともアンバランスな感じだった。そんな虎と龍を飼っていたものだから、クラスのエセヤンキーによく絡まれたものだ。あまりにも鬱陶しかったので、ある日自作の弓矢で🏹射ってやった。それから何故か静かになってくれてとても助かった。
高校は三年間応援団に所属した。
応援団の為の学ランではなかったが、ある意味とてもしっくりくる組み合わせではあったと思う。
そして、相変わらず写真は撮り続けていた。

今思うと、先生の指示に従う部活が嫌いだったのかもしれない。
だからサークルを作った。
他の高校からもメンバーを募り【artrandom】を設立した。
サバゲーをしたりBBQをしたり映画を作ったり、とにかくやりたい事をやるサークルだった。
そこで映画作りの魅力にハマり、漠然とそれを仕事にしようと決めた。

たった一つの問題は、卒業出来るか、その一点だった。笑

3つ上の兄はまあまあ優秀でとにかく勉強ができた。それを覚えていて比較し、僕の学力に対して罵声を浴びせる教師もいた。傷付かなかったと言えば嘘になるが、どちらかと言えば憐みの感情の方が強かったように思う。(ああ、この人はきっと誰からも愛されずに一生を終えて行くんだろうな。高校生にそんな風に思われる教師ってなんか可愛そうだなぁ)とまぁ、相変わらず冷めたガキだったのだ。
月日は流れ、相変わらずの映画三昧、写真三昧、好きな事三昧。
おかげでますます卒業が怪しくなった。

つづく

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